キビタキの湯
ドアを開けると微かに香のかおり。心が落ち着く香りだ。スーパー銭湯に来る目的は癒し。
高濃度炭酸泉が気にいって必ず入る。体を沈め首だけ出して、一時間ぼーっとする。頭の片隅に野鳥の声。この歳まで生きてきて、泣きたいほど辛いこともあった。うれしさに緩む頬を隠すのに困ったこともあった。人生って何だろう。
BGMはキビタキのさえずり。ここは一年中キビタキ。
山野で実録音したものだろう、後ろに種々の鳥の声が入っている。キセキレイだろうか、ビンズイだろうかよく分からない。
初めのころは頭を巡らせていたが、今は通り過ぎる。分からなくていい。
西の丸庭園で見たキビタキを思い出す。もう二十数年前になるだろう。夕刻の光に映えて実に美しかった。特に喉の色が濃くて赤く見える奴だった。
恐ろしくて近づけなかった。飛び立つのが恐かったのではない。
露天風呂の植栽に赤い花が咲いている。サザンカだろうか。メジロがそっとやってきて花に。ヒヨドリが騒がしくやってきてメジロを追って蜜を吸う。
他の客たちは、そんな鳥たちの行動にまったく気づいていない。私は湯の中からそれを見ている。
もうすぐ春の渡りが始まる。何回目になるのだろうか。そのたびに出会いがあって、別れがあって、思い出が残る。
そうして今まで生きてきた。
目をやると、体中に細かい泡がびっしりと付いている。体をゆすると泡が一斉に体から離れて水中に広がる。