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ヒストリー 〜時空を越えて〜

今秋の渡りは順調、気候も安定し鳥見人には幸せな日が続いているが、過去を遡ること400年、この地は泰平の世を巡り壮絶な争いが繰り広げられていた。

「ぼぅぉ〜、ぼぅぉぼぅぉ〜」法螺貝の音が響き渡る大坂城。その歴史は・・・

大阪城の写真

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太古は海、縄文時代の大阪は上町台地だけが陸地であった。その後長い年月を掛け風が砂を運び平野となる。弥生時代には稲作が発展し人々が定住するようになった。
飛鳥時代、大化の改新で難波(現、難波宮跡)に都を移し難波長柄豊碕宮が652年に建立されるも火災により686年に焼失。世はやがて国盗りの時代へ。

戦国時代では織田信長が天下統一を謀り、現在の大阪城に位置する石山本願寺の明け渡しに成功、1580年の事である。しかしその直後石山本願寺は三日三晩燃え続け全焼。明け渡しを快しとしなかった僧侶が火を着けたとされる。
その後、信長はこの地を復興させ大坂城の建立を命ずるも、志半ばで明智光秀に討たれる、世にいう本能寺の変。
信長の死後、天下を収めた豊臣秀吉は1585年に大坂城天守閣を建立。
1598年、秀吉の死後は天下泰平を掲げる徳川家康と豊臣家が相まみえる事に。

1614年、大坂城の四方を取り囲み一斉砲撃を続ける徳川軍に対し、兵糧を買い占め対抗する豊臣軍。冬の合戦のため兵糧不足は戦力の低下に繋がると判断した徳川は、同年12月に外堀を埋める条件で豊臣に和平を提案。その案に即刻応じ和議が成立した。大阪冬の陣である。

翌1615年、徳川軍は茶臼山から南側を陣取り無防備となった大坂城に襲いかかる。5月、天守閣に烈火の如く砲弾を浴びせ落城、燃え盛る炎は大坂の空を真っ赤に染め京からも見えたといわれる。夏の陣である。

1629年、二代目徳川将軍の命により天守閣が再建されたが39年後に落雷で焼失。現在の天守閣は昭和天皇即位事業として1931年(昭和6年)に再建されたものである。

そして太平洋戦争終戦前日1945年8月14、米軍の第8回大阪大空襲で空爆を受け砲兵工廠(現、大阪城公園北東部)は壊滅、大阪城内にも被弾し石垣や櫓などが戦火の犠牲となった。

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上町台地に鎮座する鳥見の名城、大阪城公園。その歴史は「平和」という名の下に争いが繰り返されてきた。

大阪城の写真

間もなくサシバやハチクマが天守閣を眼下に天空を舞うだろう。時空を越え歴史を見守り続けてきた彼ら、その眼に人類の愚行がどう映し出されているのだろうか・・・

 

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