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シンボル 〜天守閣の受難〜

新年3日に初登城(初鳥見)。この日は晴天、冬のただ中とは思えないほど柔らかい陽射しに包まれ心地よい鳥見を楽しむ事が出来た。
正月の観察時に毎年思うのだが、そびえ立つこの天守閣で太閤秀吉さんはどんな正月を迎えていたのだろ? いやいやこの天守閣は大林組が建てたもの、エレベーターも設置されているし…太閤さんが建てた天守閣は夏の陣で炎上したはず…などと考えていると天守閣の歴史については全く知識がない自分に気付いた。この機会にと思い調べてみると驚くべき事実が。

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この地は元々石山本願寺、蓮如上人が晩年隠居所として立てた大坂御坊が後の石山本願寺となる。天下統一を図る織田信長と11年にわたる石山合戦の末、この地を信長に奪われてしまった。その後、この地に大坂城築城を成し遂げた秀吉が初代城主だと思いがちだが、城を建てるため修復を命じたのは信長であり、その信長が大坂城と名付けた、これが本能寺の変の2年前の話。   
信長の没後は領土配分を決める清洲会議が開かれ、当時強い勢力を持つ摂津国藩主・池田恒興が城主となる。後に、柴田勝家を滅ぼした秀吉が池田恒興を大垣城に移し(今で言う左遷?)、本格的な天守閣の築城に取り掛かった。
実は初代城主が信長、2代目が池田恒興、3代目が秀吉という事になる。
ここまででも結構ディスカバリー? だが、まだまだ続く。

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豊臣時代を支えてきた天守閣は大坂夏の陣で炎上、33年間で豊臣家と共にこの世から姿を消した。その後2代目徳川将軍・秀忠の命により豊臣時代のものより高い天守閣、石垣も堀も大きいものが再建され2代目大阪城が誕生した。
豊臣時代の天守閣の高さは約39m、徳川時代に再建されたものが約58m、石垣は各藩大名の手により豊臣時代のものは殆ど埋め尽くされ、南外堀の最高33mの高さを擁する石垣は日本一のものとなった。しかし、その巨大な天守閣も39年後の落雷により炎上焼失、天守閣のない城として3代目の再建を待ち続ける時が流れるのであった。

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3代目天守閣は226年後の昭和6年、大阪市長の発案で昭和天皇即位記念事業として復興された。復興費は財閥や市民による寄付で当時150万円(現在の約75億円)、世界恐慌の中これだけの寄付金が3年で集まったという、今ではとても考えられないだろう。その後各地で大小40の天守閣の復興が行われてきたが大阪城天守閣が一番乗りである。鯱を始め装飾も金色をふんだんに使い雄大且つ煌びやかな天守閣は、初物好き派手好きな“なにわっこ”気質そのもの、それ以後大阪のシンボルとして君臨している。が…
この天守閣に重大な事実が判明したのだ、30年ほど前米国ベテラン建築士が「天守閣が傾いている」と指摘。後に展示ケースを設置する際、平行に保つためにケースの支柱を5cm程度調整しなければいけなかった、翌年別の場所に同型ケースを設置の際も同様の事があった、本当に指摘通り傾いていたのだ。
なにぃ! 大阪のシンボル天守閣が傾いている? 驚愕のディスカバリーや!

傾いている大阪城の写真
(傾きは東北側・現大阪城ホール側)

米国建築家によって明らかにされた天守閣の傾き、アメリカに端を発した今回の世界的経済の傾き…迷惑な発信源(言)は「ノー・サンキュー!」だ。
アメリカの方「アイム・ソーリー」

※天守閣の傾きは不動沈下でそれ以上傾く事はないだろう、ただ平成の大改修時に修理されたかは不明である。

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